加藤 寛崇の記事一覧

三重合同法律事務所事務所コラム

加藤 寛崇の記事

セカンド・オピニオンも活用しましょう

2019年1月2日


弁護士 加藤 寛崇

加藤 2019春事務所ニュース写真

 先般、依頼を受けたある保険金請求事件において勝訴判決を得て確定し、約1000万円の支払を受けることができました。

 この事件の依頼者は、私に相談するまでに4人の弁護士に相談したものの、勝算がないなどと言われて断られたという経緯がありました。私としても、確実に勝てると言えないのはもちろん(そもそも、弁護士は、有利な結果を保証するような説明をすることは禁止されています。)、負けてもおかしくないと見込まれる事件でしたが、請求が通る根拠もあると思ったので、やるだけやってみても良いのではないかと説明し、依頼を受けるに至ったものでした。

 いろいろな偶然に助けられたなどの事情もあったものの、勝訴して結構な金銭を得られたわけですから、裁判に踏み切って良かったのは間違いないでしょう。最初に複数の弁護士に断られた時点で諦めていたら、本来の権利が失われてしまうところでした。

 業務をしていても、既に他の弁護士に相談したとか、更には現に依頼中であるといった方からの相談を受けることもしばしばあります。証拠や事実関係の評価や法的判断は、専門家でも見解が分かれることは少なくありません。最初に相談・依頼した弁護士の説明が絶対に正しいという保証はないのですから、疑問があれば他の弁護士の意見を聞いてみるのも時には有意義です。

 最近はこの種のセカンド・オピニオンを求める相談もさほど珍しくないように思われますが、人によっては、最初の相談だけで諦めたり、既に依頼しているのに他の弁護士に相談することに抵抗があるかもしれません。しかし、自分の問題ですから、自分が納得できるようにした方がいいでしょう。もちろん、どの弁護士に聞いても有利な回答が得られないなら、それは現にそういう状況ということなので、それを前提にどうするか考えるしかありません。


正社員と契約社員との「不合理」な格差を禁じる労働契約法20条

2018年8月16日


弁護士 加藤 寛崇

写真(加藤2018s)    2013年4月から施行された改正労働契約法20条では、正社員のように期間を定めずに雇用された無期雇用労働者と、非正規の契約社員のように期間を定めて雇用された有期雇用労働者の労働条件の違いが、業務の内容、業務内容や配置の変更の範囲、その他の事情を考慮して「不合理と認められるものであってはならない」と定めている。

 この規定の適用をめぐって争われた2件の裁判で、2018年6月1日、最高裁が判決を言い渡した。判決では、正社員にのみ諸手当を支給し有期雇用労働者に支給しないことについて損害賠償請求を一定程度認めたが、他方で、定年後再雇用の有期雇用労働者については格差を広く認めているし、なにをもって「不合理」と評価するかも曖昧で、問題が残る。なにより、法律は「不合理」な格差を設けることを禁止しているのだから、素直に考えれば、正社員との労働条件の違いが不合理であれば、有期雇用労働者の労働条件は正社員と同じになるとすべきなのに、そのような効力は認めず、あくまで損害賠償請求を認めるにとどめた点でも格差是正の実効性を損ねる。

 更に言えば、雇用主が法律の定めるルールに違反しているのに、金銭賠償さえすればそれでよいというのでは、争われたケースだけ支払に応じればよいことになり、全体としての是正にはつながりにくい。弁護士は「それが普通」だと悪慣れしてしまっている面も否めないが、もっと厳しく処罰もすべきものである。帝政ロシアの弁護士だったレーニンは、1897年に述べている。「法律のなかに工場主による法律の不履行に対する特別の罰則がないのはおどろくべき不公平であって、わが国の政府ができるだけ長く法律を適用しないで放っておこうと欲しており、法律に服するよう工場主に厳重に要求する気がないことを、端的に示している。」(『新工場法』)。1世紀以上を経た日本国でも、事情はさほど異ならない。

 そこから、次のような教訓が引き出せるという点でも同様である。労働者のための法律を真に履行させるには、労働者自身の取り組みが必要である。

「今ロシアの政府は、この古い策略をくり返しながら、労働者がこれに気づかないことを希望している。だが、このような希望には根拠がない。新しい法律が労働者に知られるや否や、彼らはみずからその履行を厳重に監視するようになり、それのいささかの違反も許さないで、法律の要求が果たされるまでは作業を拒否するであろう。……こういう監督なしには、法律は履行されないであろう。」(同上)


安全対策に関する判断で浮かび上がる司法の制度論回避

2018年1月1日


事務所ニュース2018新年 加藤 弁護士 加藤 寛崇

 2017年10月16日、秋田地方裁判所は、秋田市の弁護士が刺殺された事件について、現場に臨場した警察官らの対応をめぐる責任を否定した。事案は、離婚を巡る裁判で元妻の代理人だった弁護士に恨みを持った男が拳銃や刃物を持って弁護士宅に侵入したところ、通報で駆け付けた警察官らが弁護士を犯人と間違えて取り押さえた隙に、その男が弁護士を刃物で突き、死亡させたというものである。同判決は、事後的に見ると現場での警察官らの対応の当否については検討の余地があると述べて不適切な対応であったと評価しつつ、「秋田県においては凶悪事件の発生が少なく、日頃から、本件のような突発的な事案に対応することができるだけの訓練や意識の涵養が十分でなかったことから、現場で適切に対応することができなかった」と考えられるとして、対応の違法性は否定した。

 判決しか知らない者としても、この内容には違和感がある。事実関係がこの判決の通りだとしても、「訓練や意識の涵養が十分でなかった」ことで不適切な対応になったのであれば、事前の対策不足自体が責任の原因として認められるべきではないか。

 このような、自治体等の安全対策等の責任が問われたケースでは、裁判所は、現場レベルの狭い範囲における対応の当否でもって責任の有無を判断する傾向が強い。これは、結論的に賠償責任を認めたケースでも異ならない。

 たとえば、高校生がクラブ活動としてのサッカー試合中に落雷で負傷した事案において、最高裁2006年3月13日判決は、試合開始前に「本件運動広場の南西方向の上空には黒く固まった暗雲が立ち込め、雷鳴が聞こえ、雲の間で放電が起きるのが目撃されていた」ので、引率者兼監督の教諭は「落雷事故発生の危険が迫っていることを具体的に予見することが可能であった」と判断し、責任があったと判断している。しかし、被害者を救済した結論は妥当だが、一般的な教諭にとって落雷まで注意してスポーツ指導をすることはないであろうし、そこまでの義務を負わせるのは過大なものではないか。

 また、東日本大震災の地震発生後、石巻市立大川小学校で74人の児童が犠牲になった津波被害事件に関する仙台地裁2016年10月26日判決も、地震発生後に小学校に津波が到来することを具体的に予見できたのに児童を高台に避難させなかったことをもって、教員の注意義務に欠けるところがあったとして市と県に賠償責任を認めた。ここでも、津波到達の7分前には津波到来が予見できていたことをもって教員の責任を認めるにとどまり、津波発生時の具体的な避難場所や避難方法、避難手順等を危機管理マニュアルに明記していなかったことの責任は認めていない。しかし、わずか7分前に津波到来が予見できていても、事前に対策が定まっていなければ、現場で適切な避難方法を判断することは困難ではないか。

 そもそも、何か事故が生じそうになった時点又はその予兆が生じた時点で適切な対応を取るのは、事前の訓練が十分されているとか、対策マニュアルが確立しているとかいった場合でないと困難である。目を向けるべきはそのような事前の対策ができていたかという制度の在り方であって、事故前のわずかな時間帯の出来事を重視するのは見当外れである。このような現場の対応に問題を限定することで、制度の在り方はちっとも問わず、問題はくり返される。

 新自由主義の下では、司法が社会の調整機能をある程度積極的に果たすようになったといわれる。しかし、こうしてみると、しょせんは個別事件処理としての調整に過ぎず、制度の在り方までは及ばないことも分かる。司法に期待するのにも限界があり、制度の在り方は、それはそれとして問題にしなければならない。


無償家事労働の問題を回避した「逃げ恥」

2017年7月31日


弁護士 加藤寛崇

加藤 事務所ニュース2017夏写真

 ドラマはほとんど見ないが、昨年人気を博した「逃げるは恥だが役に立つ」(「逃げ恥」)は、原作を以前から読んでいたこともあって視聴していた。

 この作品の本来の主題は家事労働が不払労働となっている問題のことだと思っていたが、意外と十分に焦点化されないまま話が進んでいたように思う。ドラマ第10話で、結婚すればタダで家事労働に従事するのが当然だと考える平匡さん(星野源)に対し、みくりさん(新垣結衣)が発した「それは好きの搾取です」という言葉は、ようやくその主題に迫るものだったはずである。もっとも、ここで出た「好きの搾取」「愛情の搾取」という表現は一定の反響を呼んだようだが、新しい指摘では全くない。すでに1980年代には、上野千鶴子がこんなふうに述べている。「『愛』と『母性』が、それに象徴的な価値を与えて祭り上げることを通じて、女性の労働を搾取してきたイデオロギー装置であることは、フェミニストによる『母性イデオロギー』批判の中で次々に明らかにされてきた……。『愛』とは夫の目的を自分の目的として女性が自分のエネルギーを動員するための、……イデオロギー装置であった。女性が『愛』に高い価値を置く限り、女性の労働は『家族の理解』や『夫のねぎらい』によって容易に報われる。女性は『愛』を供給する専門家なのであり、この関係は一方的なものである。」(『家父長制と資本制』)

 しかし、その後のドラマの展開も原作の展開も、中途半端なものであった。最終的に、2人が共同で家庭の「最高経営責任者(CEO)」になったのが解決の形であるかに描かれるが、夫婦を家庭の「経営者」と称するのは、1950年代の第一次主婦論争にも見いだされる(関島久雄「経営者としての自信をもて―主婦は第一職業である―」『婦人公論』1956年9月号)。新奇性のある発想ではない。また、原作ではみくりさんが職を得たことで「CEO」になったのだが、家事労働が有償労働であれば、職を得て初めて「CEO」になることにもならないはずである。なにより、「CEO」になることでそれまで支払われていた家事労働に対する賃金が明確な形では支払われなくなっているのだから、当初の主題からすれば後退している。こうして、もっとラディカルな問題提起をできたはずの作品は、ひょんなことから同居を始めた男女が恋に落ちるという陳腐なストーリーで終わってしまった。

 さて、家事労働が正当に評価されないのは、司法の分野でも変わらない。たとえば、主婦が交通事故の被害に遭った場合。就労している人なら、休んだ期間に応じた休業損害の賠償請求が可能となるが(一日休めば給料一日分の休業損害として請求できる)、主婦の場合は、女性平均賃金に基づいて、休んだ期間のうちの一定割合(数十%など)でしか算定されない。しかし、通常、就労している人が仕事を休んだ場合でも、丸一日働くことが不能だったとは限らない(通院して一日仕事を休んだからといって、実際には、丸一日休む必要があったわけではなさそうなケースも少なくない。)。この不均衡も、家事労働を不払労働とする現実及びそのイデオロギーの反映にほかならない。そうなると、個々の訴訟において主婦の休業の損失をいかに訴えても、限界もある。

 かくして、不均衡の解消には、労働力の商品化そのものを問題にするほかなく、賃金制度の廃止まで行きつかなければならない。


高齢者向け住宅をめぐるトラブル

2017年1月1日


弁護士 加藤 寛崇

 高齢化社会を迎えて、各地に、食事や生活支援等のサービス提供がセットになっているサービス付き高齢者向け住宅が増加しています(一口にサービス付き高齢者向け住宅と言っても、法律上は様々な種類があって複雑なのですが、細かい点は省略します。)。高齢者向け住宅を運営するのは、社会福祉法人だったり普通の会社だったりしますが、高齢化社会で介護業務の需要が増加しているため、新規に参入してきた事業主も少なくありません。そして、中には少なからず問題のある運営をしている事業主も散見されます。

 実際に、有料老人ホーム等に入居するに当たって支払われる入居一時金について、途中で退去した場合の返還をめぐってトラブルが多発したことから、現在では、法改正によって、以下の契約内容とすること等が事業主に義務づけられています(2011年改正後の老人福祉法、同年改正後の高齢者の居住の安定確保に関する法律)。

・前払金の算定の基礎を書面で明示し、かつ、当該前払金について返還債務を負うこととなる場合に備えて必要な保全措置を講じること

・返還する金銭の精算は日割り計算で行うこと

・家賃、敷金及び日常生活上必要なサービスの対価として受領する費用以外に、権利金その他の金品を受領してはならないこと

 しかし、今でもこれらの条件が十分に守られていない契約を目にすることも時にはあり,この先、紛争も生じてくると思われます。

今の高齢者向け住宅の規制には曖昧な点もあり、たとえば、「敷金」の受領は良くて「権利金」の受領はダメだとされているものの、前者と後者の区別は明確ではありません。これまで、通常の賃貸住宅に関わる法律トラブルとして、敷金や更新料の返還請求をめぐって全国的に争われたケースもあり、この点については判例によるルールも一応形成されています。高齢者向け住宅に関するこの種のトラブルについて裁判になった例はあまり見当たりませんが、今後、問題が生じてくると予想されます。

いずれにせよ、トラブルになるのは好ましくありませんので、身内などが入居する場合には契約内容をよく確認することが必要です。


保険契約にご注意

2016年7月1日


弁護士 加藤 寛崇

 日本人の多くは生命保険をかけるし、自動車を持てば強制保険とは別に任意の保険契約をするのも常識ですが、これらの保険は内容が複雑なことも少なくありません。

先日は、ある交通事故の訴訟で、地裁判決で保険金の扱いを間違っていたのが高裁判決で正されるということもありました。

通常、交通事故の被害に遭った場合には、加害者が任意の自動車保険契約をしていれば、その保険会社から賠償金が支払われます。

しかし、自分やその家族が契約していた自動車保険があれば、その契約内容次第では、その保険から一定の支払を受けられる場合もあります。このように自分側の保険から支払を受けた場合、その既払金は加害者側から支払ってもらう賠償金から引かれる場合もあれば引かれない場合もあり、それは保険の内容によって左右されます。さらに、受け取る保険金が「人身傷害保険」などと呼ばれるものに当たる場合で過失相殺が問題となるケースでは、加害者側から賠償金が支払われる前に人身傷害保険金を受け取るか、その後に人身傷害保険金を受け取るかで、トータルとして確保できる金額に差が生じることもあります。しかも、支払を受ける保険金によって、事故の時点から支払の時点までの遅延損害金に先に充てられるかどうかといった点でも差異が生じます。

このように性格がややこしいので、この扱いを知らない弁護士も意外と少なくありません。弁護士だけでなく、裁判官も分かっていないことがあるくらいで、私の扱った上記事件でも、人身傷害保険金の支払がなされた場合の処理を間違っていた地裁判決が高裁判決で是正されたというものでした。このような間違いが生じるくらいですから、よほどの注意が必要です。

生命保険でも内容を確認しないままに契約を結んだり放置していることは少なからずあって、生命保険金の受取人を変更すべきだったのにしないまま亡くなられて不都合が生じるといったケースも見受けられます。

誘われるままに保険契約を結んでいる人も意外と多く、自分がどういう契約をしていて、いざというときにどのように利用できるのか分かっていないことも少なくないかと思います。何かあったときには、一度は保険証券や約款を持参して弁護士に相談した方がいいでしょうし、自分が契約している保険の内容は理解しておくべきです。

 よく「保険に入る」という言い方がされます。これは、保険という「組織」のような存在に入ることで守られるという安心感を抱かせるのに役立っているように思われます。しかし、保険はあくまでも契約であって、契約の効果を超えて守ってくれることはありません。


慰謝料(いしゃりょう)の話

2016年1月1日


弁護士 加藤 寛崇

 法律相談で「イシャ料はどれくらいになりますか」という質問が投げかけられることがよくあるように、「慰謝料」は、一般の方も知っていることの多い言葉のようです。

慰謝料とは、「精神的損害に対する賠償、いわば内心の痛みを与えられたことへの償い」を意味するとされていますが(最高裁1994年2月22日判決)、では、その金額はどうやって決まるのでしょうか。痛みの程度は測定が困難ですし、そもそも精神的苦痛をお金に換算すること自体に無理があります。結局、裁判になった場合には、裁判官が感覚で決めるしかありません。

といっても、現実には、少なからず「相場」を意識して慰謝料額が決められているのも実情です。たとえば、交通事故などで傷害を負った場合、更には後遺障害を負った場合の慰謝料額は、かなり厳密に相場が決まっています。事故から治療終了までどれくらい病院に通ったか(通う必要があるだけの傷害だったか)で傷害を負ったことの慰謝料額が算定され、また、後遺障害は程度に応じて1級から14級までランク付けられ、それに応じて慰謝料額が算定される、という具合です。

他の分野では、そこまでは確実な基準は存在せず、裁判官によって額が左右される面もあります。それでも、たとえば、不倫の慰謝料であれば、離婚しない場合であれば100万円前後、離婚に至る場合には150から300万円程度といった具合に、おおよその幅の相場が存在します(個別事情で、相場から外れている例もあります。)。

もっとも、慰謝料額に相場があるといっても、これまでの事例の積み重ねによるものでしかありません。一番最初のいくつかの事例でどうやって算定されたかと言えば、それは、直感的に判断されるしかありません。なので、相場といっても特別な正当性があるわけでもなく、タマネギの皮をむいていくのと同じように、元をたどれば空っぽで根拠を欠いたものです。

更に、慰謝料額の相場は固定的なものではなく、時代によって変化しています。たとえば、不倫の慰謝料は低額化傾向にあります。年配の弁護士と話をしていると、不倫の慰謝料額について、やや高めに見積もっているように思えることもあります。これに対し、セクハラの慰謝料額は、ある程度、増額化傾向にあると言われます。

 上記のとおり、相場に特別の正当性はないので、時代に応じた変化は好ましいことです。私も、過去の慰謝料額が不相当だと思うときには、そのことを訴えることもあります。しかし、相場のくびきは強いようで、「本件の諸事情により」といった安易な理由づけで相場どおり(時にはピッタリ予想どおり)の慰謝料額になってしまい、虚しい気持ちを抱くことも少なくありません。とはいっても、主張することがなければ変わっていく機会もないので、今後も、時には相場にとらわれないように心がけたいと思います。


労働者派遣法は、派遣労働者を「モノ扱い」する法律です

2015年7月31日


弁護士 加藤 寬崇

 安倍内閣は、今国会に、雇用分野に関してだけでも、労働基準法等改正法案や労働者派遣法等改正法案などの悪法を提出しています。
 労働者派遣法改正法案については、厚生労働省課長が、派遣労働者について「モノ扱い」だったと発言して、一時、物議をかもしました。

 この発言は、正確には「派遣労働は期間が来たら使い捨てというモノ扱いだったが、ようやく人間扱いする法律になってきた」というものです。これは、前半については、いたって正しい内容でした(「期間が来たら使い捨て」というよりは「不要になったら使い捨て」という方が実情には合っていますが、法律としては「期間が来たら」で間違っていません。)。
 制度の構造としても、そう言えます。派遣労働者を使用する派遣先会社は、派遣労働者に給与を支払うことはなく、派遣元会社に「派遣料」を支払います。この派遣料は、課税仕入れ(課税売上(消費税の課税対象となる売上金額)から控除される仕入金額)として扱われます。他方、会社が雇用する従業員に支払う給与等は、課税仕入れとして扱われません。つまり、税制上も、派遣労働者は、商品をつくために原料等の「物」を仕入れるのと同じように扱われているのです。

写真(加藤)

 また、法律上、派遣先会社は、使用しようとする派遣労働者を事前に面接することは禁止されています(実際には、少なからず行われていますが。)。本来、会社で使用しようとする人がどんな人物か面接しないのはおかしな話ですが、派遣労働者が派遣元から仕入れる「物」に過ぎないと考えれば、ごく自然なことです。
実態としても、リーマンショックの時期には、派遣先会社は、派遣労働者を優先して整理して、いわゆる「派遣切り」が横行しました。リーマンショックの起きた2008年の翌年には、労働者派遣された派遣労働者数が約25%も減少しています。文字通り「使い捨て」にされていたとしか言えません。
 したがって、「モノ扱い」発言は、派遣労働者がこれまでモノ扱いだったという限度では、100%正しい内容としか言いようがありません。

 間違っているのは後半部分であって、今国会の労働者派遣法改正法案では、派遣労働者が永続的に派遣労働者のままの「モノ扱い」になることを認める内容になっています。このような改正法案は阻止しなければなりません。


マスコミのニュース価値感覚とのズレ

2015年1月1日


弁護士 加藤 寛崇

 最近、代理人として、ある地方自治体を相手にした訴訟を起こしたら、どこのマスコミにも知らせていないのに、最初の口頭弁論期日が開かれる前から、複数のマスコミ(新聞記者など)から、その事件について問い合わせがあった。以前に、国を相手にした訴訟を起こしたときにもそういうことがあったので予想していたことではあるが、どうもマスコミは、国や地方自治体を相手にした訴訟だと注目することが多いようだ。

 訴訟は公開が原則なのだから、マスコミが、取り上げるに値する訴訟がないか、いろいろ捜すこと自体は悪いことではない。なので、それ自体はいいのだが、マスコミが注目して取り上げようとする事件と、弁護士サイドから見て取り上げるに値する事件とでズレを感じることもしばしばある。

私が代理人として扱った事件で、ある住宅街の隣人争いがあった。私の依頼者は、隣人から、「あいつ(依頼者)が、飼っている犬の糞尿を側溝にわざと垂れ流している。臭くてたまらない。」などという事実無根の悪口を近隣などに言いふらされて、非常に迷惑を被っていた。そこで、依頼者は、その隣人に対して、名誉毀損等による慰謝料等の損害賠償を請求する訴訟を起こし、判決で、隣人に対して賠償が命じられた。

三重県のような地方で、こういった隣人の悪口が訴訟に発展して判決に至るというのは中々珍しいことではないかと思われたし、隣人でも根拠なく悪口を言いふらしたりすれば賠償責任を負うのだということを世間に知ってもらう意味もあると思い、判決後、依頼者側の了解の上で、当該判決結果を報道各社に知らせた。

だが、どこのマスコミからも問い合わせはなく、報道もされなかったようである。隣人争いの訴訟だから報道する価値がないということでは、おそらくない。1977年から鈴鹿市で起きたいわゆる「隣人訴訟」(近隣のよしみで預けていた子どもがため池に溺れて死亡したことで、預けた両親が、預かった両親等に損害賠償請求訴訟を起こした事件)は、判決後、広く報道された。そうすると、今回の事件が取り上げられなかったのは、人が死んだりすることがなく、事件としては地味だったから、マスコミ側からは無価値に見えたのだろうか。むしろ、そういう地味なトラブルでも訴訟にまでいくということに意義があると考えたし、特殊な事件ばかり報道するよりも参考になりそうな判決を報道するのにも意味があると思ったのだが、マスコミ側の感覚とは合わなかったようだ。残念である。


三審制を活用しよう

2014年7月31日


OLYMPUS DIGITAL CAMERA このところ、当方が代理人となった訴訟で、一審判決で勝訴(一部勝訴も含む)したら、相手方から控訴されずに判決が確定したことが何度かあった。

 もちろん、一般的にいえば、一審でそれなりに主張・立証がなされた結果の判決なのだから、控訴しても変更される方が少ない。弁護士であれば、控訴して変更される見込みがあるかどうかの見通しはある程度つくから、見込みが無いか乏しいと思って控訴しないこと自体は珍しいわけでもない。
 私の印象としても、控訴されなかった事件の大半は、控訴されても結論が変わる可能性は極めて低いものだった。見込みの低い事件で控訴するのは、代理人の立場としても気乗りしない面があるのも事実である(見込みが低いと思うなら最初から受任しなければいいと言われそうだが、訴訟になり、双方の主張と証拠がある程度出そろってきて初めて分が悪そうだと分かってくることもある。)。

 しかし、そうはいっても、判決は、所詮は人間のする判断である。弁護士側と裁判官とで、着目するポイントが違うこともある。経験上も、これは控訴しても厳しいだろうなと思っていたが、意外にも結論が変更されたということもないわけではない。それに、控訴されずに終わった事件の中には、こちらから見て、結論が変更される可能性もあったと思えるものもあった。そういうのを一審判決で終わらせてしまうのは、それでいいのかな、という気もしてしまう。時として、弁護士の方で早々と見切りを付けてしまっていることもあるようにも見える(外から見た印象だけではなく、現に弁護士に依頼している人から相談を受けたりしたことも踏まえての印象である。)。
 実際、控訴審で結論が変更されることは、少ないといっても、稀というほどではない。控訴審は、良くも悪くも、ダメならダメであっさり控訴棄却になるだけので、そこまで裁判の負担は大きくない。相手方からすれば、可能性の乏しい控訴をされて迷惑ということはあり得るにせよ、控訴をするのは当事者の権利だし、せいぜい6か月程度伸びるだけのことである。
 そう考えると、せっかく保証された権利なのだから、明らかに見込みが無いならともかく、弁護士の側から控訴しない方がいいと勧めるのはあまり気乗りしない。

 そういうわけで、負けた事件は、もっと控訴してもいいのではないかと思う。なお、現在控訴中の事件をダメ元でしているという意味ではないし、本当に理由がないと思ったら控訴を受任しないので誤解なきよう。





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