福井 正明の記事一覧

三重合同法律事務所事務所コラム

福井 正明の記事

改革者に求められる醒めた視点

2026年1月6日

弁護士 福井 正明

① 烏江亭に題す 杜牧(803-852年)

勝敗は兵家も事期せず 恥を包み恥を忍ぶは是男児
江東尾の子弟才俊多し 捲土重来未だ知るべからず

(戦の)勝敗は兵家も見通せないものだ
(敗戦の)恥を包み 恥を忍ぶ者は男児である
(項羽の郷里の)江東の子弟には才俊ある者が多い
(江東から)捲土重来しておれば その結果はどうなっていたか分からない


② 烏江亭に題すに和す 王安石(1021-1086年)

百戦疲労し壮士哀しむ 中原の一敗勢い廻らし難し
江東の子弟今在ると雖も 肯て君王がために土を巻いて来らんや

(項羽の兵は)連戦で疲労し、哀しみに沈む 
 中原での一敗は挽回することができない 
 江東子弟が今在ったとしても、どうして君王(項羽)のために 
 土を捲いて(攻め上って)来るだろうか 

 これは、楚(項羽)漢(劉邦)戦争の最後に、項羽が漢軍に追い詰められて、それでも降伏せず、最後まで戦うことを選択する場面である。「項羽」と「劉邦」は、陳勝呉広の乱(紀元前209年8月)に乗じて旗揚げし、項羽の叔父「項梁」の下で、力を合わせて秦軍を攻撃し数々の戦果を挙げた。「項梁」の戦死以後、お互いライバル関係となっていく。項羽も劉邦も決定的勝利を収めることができないまま持久戦となった。秦軍の残党や反乱分子が挙兵するたびに、各地を強引な戦法で戦った「項羽」の軍は、戦線が延び、補給も不足し、終に劉邦軍に「垓下」に追い詰められ、長江流域の「烏江の渡し」まで逃れてきた時の最後(紀元前202年)の様子が記録されている。


③ 司馬遷「史記」「項羽本記」によれば、是に於いて項王乃ち烏江を東に渡らんと欲す。烏江亭長船を檥して待つ。項王に謂ひて曰く。「江東は小なりと雖も地方千里、人口数十万人。亦王たるに足る也。願わくば大王急いで渡れ。今臣独り船あり。漢軍至るも以て渡る無し。」

 項王笑いて曰く、天の我を亡ぼすにして 我何ぞ渡を為さん。且つ籍(項羽の諱名)江東の子弟八千人と渡江し西せしに 今一人還る無し。縦令(たとい)江東の父兄我を憐れみて王と為すも 我何の面目有りてか之に見えん。縦令彼言わざるも、籍、独り心に愧じざらんや。

 乃ち亭長に謂いて曰く「吾、君の長者なるを知る。吾此の馬に乗ること五歳。当たるところ敵なし。嘗て一日千里を行く。これを殺すに忍びず。以て公に賜らん」。乃ち騎をして下りて歩行せしめ 短兵を持ちて接戦す。独り籍の殺すところの漢軍数百人。

 この場面の杜牧と王安石が描いた感想は余りにも対照的である。

杜牧は、ここで「勝敗は兵家も事期せず 恥を包み恥を忍ぶは是男児 江東の子弟才俊多し (if)捲土重来すれば、未だ知るべからず」という。この歴史にifを付ける詩は、文学作品として見るなら、過去を振り返るだけの訓詁学から、読者を多様な結末へのストーリー展開を導く現代的で斬新な詩の手法である。

 杜牧は三国志の208年、曹操、孫権、劉備の間で行われた「赤壁の戦い」に関してもifを使って詩を読んでいる。


 ④ 赤壁 杜牧(803-852年)

 折戟(折れた戟)沈沙に沈んで 鉄未だ銷せず 自ずから磨洗をもって前朝(三国時代)を認む
if東風周郎がために便ならずんば 銅雀(曹操のの館)春深うして二喬を閉ざせしならん

 東風は実際に吹いたから曹操軍は敗北したのだが、もしも吹かなかったら、孫権と周瑜の妻、美人姉妹の二喬は、曹操の館に閉じ込められていただろう。このifは、読者の想像力をかき立てる手法である。

 杜牧の①「烏江亭に題す」の場合、英雄項羽がこのように敗れ去ったのは真に惜しい。烏江亭長の親切に甘えて、「敗戦の恥」を忍んで一旦江東に逃れておれば、捲土重来のチャンスもあり、そうなっていたら戦の帰趨はどうなっていたか分からないという、敗者に対する「判官贔屓」の気持を含んでいる。

 しかし、王安石は、当時の楚軍の状況を「百戦疲労し、壮士哀しむ」状況にあったと分析する。これは、それまでの項羽の戦の仕方は道理に反しており、戦士は連戦で疲労困憊であったからである。史記にも「兵疲」との記載がある。初め楚の懐王は、項羽と劉邦に対し、「どちらか先に秦の咸陽を攻略したものを王とせよ」と言い、項羽と劉邦は共に秦と戦ったが、劉邦が先に咸陽を無血開城させて占領した。項羽軍が遅れて咸陽に攻め上って来ると、劉邦軍はそのまま咸陽を撤退し、項羽軍に咸陽を引き渡した。項羽は数日して兵を率いて咸陽を殲滅し、降伏した秦の王子嬰を殺した。咸陽を焼いた火は三か月間消えなかった。

 項羽は秦の財宝や婦女を収めて東に向かった。ある人が「この地は山河に囲まれて四方が塞がり、土地は肥沃ですから、この地に都を築き直してはどうですか」と項羽に言ったが、項羽は「富貴にして故郷に帰らざるは、繍(しゅう・うすぎぬ)を着て夜行くが如し。誰がこれを知るものぞ」と答えた。説者(ぜいじゃ)曰く、「人言う『楚人は沐猴にして冠するのみ』(知恵が無いのに猿が冠を付けているだけの意味)と」。司馬遷は「史記」に記載している。

 王安石の➁「烏江亭に題するに和す」は、さすがは北宋を率いた宰相である。項羽の戦に向けた智慧のなさ、及び兵の疲れた状況を踏まえれば、仮に江東に渡っても、項羽のために兵が捲土重来することはないという。勝れた詩人でもあった偉大な政治家の理屈の詩である。


書作品について

2025年8月1日


弁護士 石坂 俊雄

 壬戌の秋7月既望(1082年9月満月の過ぎた頃)、蘇子(蘇軾)は三国時代の古戦場「赤壁」において、長江に船を浮かべて、飲んで歌って船遊びをした。その時の感慨を歌ったのが「赤壁の賦」である。「賦」とは韻や字数にこだわらないで歌う曲のこと。

 詩の中身は、大騒ぎして飲んで歌って船遊びする中で、独り縦笛を吹く客がいた。これに歌を合わせると、その笛の声は響き渡り、怨むが如く、慕うが如く、泣くが如く、訴うるが如し、余韻長くして絶えざること糸の如し。蘇子顔色を変え、客に向かって正座して曰く、「どうしてそのように悲しそうに演奏するのですか」。客曰く「月明らかに星稀にして烏鵲南に飛ぶ」「これ孟徳(曹操)の詩に非ずや」

 「酒をそそいで江に臨み、槊を横たえて詩を賦す。固より一世の雄なり、しかるに今安くに在りや」「吾が生の須臾なるを悲しみ、長江の窮まりなきを羨む」「飛仙を挟んで遨遊し、名月を抱いて長しえに終えんことをにわかには得べからざりしことを知り遺響を悲風に託せりと」

 蘇子曰く、「客も亦かの水と月とを知れるか」「逝く者(水)は斯くの如くして未だ嘗て往かざるなり、盈虚するもの(月)は彼の如くして卒に消長するなきなり」「蓋し、将た、その変ずる者よりしてこれを観れば、則ち天地もかって以て一瞬たること能わず」「その変ぜざる者よりして之を観れば即ち物と我と皆尽くる無きなり。而るに又何をか羨まんや」

 「苟も吾の有する所に非ずんば、一毫と雖も取るなかれ。惟だ江上の清風と山間の名月は、耳これを得て声を為し、目之れに遇いて色を成す。之れを取れども禁ずる無く、之れを用うれどもつきず。是造物者の無尽蔵なり、而して吾と子と共に適する所なり」

 「客喜びて笑い、盃を洗いて更に酌む。肴核は既に尽きて、盃や皿は散らかり放題。お互いに枕にしあって眠り、東の空が白むのを気づかなかった」

 客と蘇軾の問答の形式になっているが、「英雄はいなくなった。むなしい」という寂寥感を感じているのは蘇軾自身であり、自問自答しながらも、今はいなくなった英雄達の生き様に思いを馳せたのではないだろうか。

 蘇軾のこの「赤壁の賦」は、蘇軾の人柄や生涯に憧れる人の書道の手本にされることが多い。この北宋時代の蘇軾の真筆は、今は台北の故宮博物院にあるが、潰れたような独特の筆法で臨書が難しい。そこで、私が手本にしたのは元の趙孟頫の書です。これは、北宋が元に滅ぼされながら、よくも書いたなと思うほど王羲之の流麗な行書になっています。そして、これも真筆は故宮博物院にあります。




 この扁額は日本の漢字教育において革命的な役割を果たした日下部鳴鶴の筆によるものです。これは大体明治33年頃の作だと思われます。 どこが革命的なのか、日下部鳴鶴は彦根藩で藩校の校長を務めていた人であるが、明治初め東京に移り、書道の研究に入った。当時の日本は、鎌倉時代の初めから明治の初め頃まで、公用書体は「御家流」という崩し字を使ってきたが、一種のスタンプのように文字を書くので、そこには書道芸術が成立する余地はなかった。

 日下部鳴鶴は、太政官大書記官を務め、明治13年に来日した清の揚守敬と親交を結び、揚の持参した多くの碑文や墓誌銘の拓本を詳しく観察し、揚が唱えていた碑文の字こそが中国の本来の文字であるとの主張と、その夥しい北魏楷書のコレクションを観て、これが正しい書であると確信した。そこで、それまでの「御家流」をやめて、北魏楷書をベースに「鳴鶴流」を生み出した。当時の政府も新しい国語教育のあり方を模索していたので、斬新な「鳴鶴流」を紹介するとたちまち大評判となり、「鳴鶴流」は近代日本を象徴する字となった。

 この「成」の字と「大」の字が「鳴鶴流」の特徴です。

 落款も「鳴鶴日下部」と、西洋風に、ファーストネームとセカンドネームを順に書いている。近代日本を教育の面で担う日下部鳴鶴の意気込みが感じられる。

 日本語を「楷書とかな」で表記する手法は、明治政府の国語教育の基本となり、その普及は早く、くずし字の「御家流」は明治の早い段階で日本語教育から姿を消した。

 「鳴鶴流」は、筆の持ち方から下し方まで極めて独特なので、初級や中級の人が習うには不適です。上級者やプロの書道家が研究する書道です。それでも鳴鶴自身や弟子の筆による様々な書や碑文も「大久保利通の墓碑銘」など、有名な書が豊富にあります。何よりも沢山の書作品がある中で、パッと見ただけで「日下部鳴鶴」だと分かる強い個性が今も魅力です。


新作機紹介

2024年8月10日

弁護士 福井 正明

 これは、数年前に米国製のキットから制作したWACO-UPF7の5分の1サイズのモデルです。初飛行の際、通常の複葉機と違う鈍重な癖があることに気づき、暫くお蔵入りになっていました。今年になって、この手の機体の癖への対処法を理解したことにより、よく飛ばすようになりました。

 「Aviation Heritage」(Net)によれば、アメリカの複葉機の老舗「WACO」社が1937年から1942年にかけて製造した機体です。それまでは同社の制作する複葉機は、一機一機受注生産する高価なものであったのに対し、本機は、複葉機の時代の終焉を迎えながらも、大量生産方式により、練習機を600機も作ったということで、皮肉にも、「画期的技術によってではなく、その製造タイミングが普通ではないことで有名」と言われています。

 当時は全金属製の単葉機の始まりの時代で、練習機とは言え、この機体はやや時代遅れの感があります。

 当時、米国海軍は、練習機として、開放型二座席を備えた複葉機を希望していましたが、他方、航空母艦の甲板に「ドッカン」と着艦しても壊れない頑丈な機体であることも求めていました。しかし、UPF-7はそれまでのWACO社の伝統であった軽量の鋼管羽布張りを採用しており、脚の構造も強化はしたが、浅い沈下角の着陸を前提としており、「ドッカン着艦」のような乱暴な使用には向いていなかったので、UPF-7は練習機として制式採用されませんでした。

 売れない多数の在庫を抱えたWACO社にとっては経営破綻の危機であったが、「捨てる神あれば拾う神あり」で、当時安価な軽飛行機が大量に発売され、米国は空前の「自家用飛行機」ブームにあり、全米の飛行機教習所において、複葉複座練習機は引く手あまたの状況にありました。

 かくて「WACO」社は、飛行機教習所に「UPF-7」を大量に供給し、結果、「UPF-7」は全米に広まり、この機体で練習を重ねて飛行免許を取得したパイロットが急増し、引退後も「UPF-7」は大切に動態保存され、今でも多数が飛んでいます。

 さて、UPF7とは何を意味するのか。WACO社の機体は3文字や2文字のアルファベットと数字で登録されています。このアルファベット文字の意味は神秘的です。 「U」は「コンチネンタル社の220hpの7気筒星形エンジン」、「P」は、トヨタで言えば、「クラウンの型式」とか「レクサスの型式」というようなもので、機体の全体の特色をカテゴリー的に示しているものです。中身を言えば、「主翼は上翼は上反角なし、下翼はやや強い上反角あり」、「胴体は前席に2人収容が限度で、やや細め、垂直尾翼や水平尾翼の形状はそれまでとは一線を画する特色ある形(口で表現できない)、脚は幅を広くした強化版」と言うようなことらしい。「F」は、「前後2座席の開放型コックピット」を指します。

 この機体の外に、私が最も信頼しているのが、写真の黄色の「WACO-YMF5」です。「WACO」社は戦後間もなく飛行機の製造から撤退しましたが、1983年から「Classic Aircraft Corporation」(2011年から現在名「WACO」社)によって「WACO-YMFシリーズ」の製造が再開されました。エンジンと型式は昔のものを踏襲していますが、搭載している電子機器や安全装置は最新の機器を装備しています。「Y」は「ジェイコブズ225hp7気筒星形エンジン」、「M」は「Pよりやや大きな胴体、即ち、前の席に3人まで乗れ、主翼は上翼下翼とも緩やかな上反角があり、水平尾翼、垂直尾翼ともP型より広い面積を有する(見た感じでは30%拡大)」です。

 模型はいずれも5分の1サイズです。上翼幅72インチと同じサイズ、搭載エンジンもSaitoFA182TD(2気筒30CC)と、UPF7とYMF5は同じエンジンを搭載します。全備重量もほぼ同じ、UPF7(7,7Kg)YMF5(7.1Kg)です。

 なのに飛び方がずいぶん違います。それは、UPF7はYMF5に比べて復元力が弱く、角度の浅い大きな半径のターンしかできず、漫然と深い舵を切り続けていると、切った方に滑り落ちる「らせん降下」に陥り、墜落の危険が生じる特性があるということです。

 レーシングカーやバイクを例にすると、カーブで舵を切ったとき、舵を切った方向に傾きながらサーキットコースに張り付くようにバンクして走ります。このバンクの角度は回転の時の遠心力と内側に落ちていこうとする重力が釣り合っている状態を示します。

 飛行機の場合も同じで、このバンク角を維持しようとする力は、主翼の左右に設けた「上反角」によって生じます。UPF7はこの上反角が主翼の下翼だけにしかないため、上反角のバンク角を維持しようとする力が足りないのだと思います。

 実機の操縦を動画で見ても、UPF7は「らせん降下」的なターンの仕方をしていますので、これは機体の持つ危険な癖です。YMF5の場合は、舵を切ったら、そこでサーキットに張り付くように自然なターンに入ります。これは、改良された「M」バージョン、特に、主翼上翼、下翼共に上反角を設定し、水平尾翼、垂直尾翼の形状改良と面積増加により、バンク維持力が大きく改善されているものと理解されます。

以上


アメリカ大統領選挙で知ったこと

2021年1月2日

弁護士 福井 正明

 アメリカ大統領選挙は盛り上がりました。ただ上院議員をジョージア州でもう一人取らないと、バイデン大統領は、予算や法律など、重要なことを決定できません。

 さて、今回の選挙速報をネットで検索していて良くわかったのが、州や郡の名前と位置、と得票状況です。よその国の選挙区など普通は興味ありませんが、今回、激戦州の選挙速報を見ていると、アメリカの州とその中の郡の位置が分かり、その州の政治傾向や経済の状況もよくわかりました。

 激戦州となったラストベルト(錆びた地帯)は特に注目されました。

 グレートレークス(五大湖)の一つ、ミシガン湖に面するミシガン州は最も激戦州でした。トランプ派の武装した男らが民主党の知事を誘拐して殺すことを企てたとして、FBIが犯人らを検挙しました。このミシガン州は、前の選挙とは逆に、民主党のバイデン候補が勝利し、バイデン氏の大統領選挙勝利の起点となりました。

 選挙速報をcnnで検索すると、各郡(county)の名前、位置、得票数などが一度に検索できます。ミシガン州の郡は、例えは、北部にはマルケッテ(maruquette)、シャルレブワ(charlevoix)、モントコーム(montcalm)などフランス語源のものがあり、この辺りは、かつてフランスが統治していたことの名残りが伺えます。

 中部に行くとカルカスカ(kalkasuka)、オタワ(ottawa)など、インディアンが呼んでいた名前の郡が出てきます。それらの外に、英語由来のグラッドウィン(gladwin)などが混在します。

 南東に自動車産業の中心地デトロイトがあります。ポンティアックとかキャデラックという有名なアメ車の名前も、ミシガン州にその地名があります。

 そしてこの「ミシガン」という名は、インディアンの言葉で「(野生の)米を食らう人々」を意味し、五大湖周辺では、野生のコメが生えていて、それを食べる部族がいたことを表しています。

 この五大湖周辺のラストベルトには、他にも、オハイオ州、アイオワ州など、インディアナ州などインディアン由来の名前の州が沢山あります。その外、北部では南北ダコタ州、アイダホ州、モンタナ州、ユタ州などもインディアンの言葉由来です。

  次に今回の大統領選挙のもう一つの激戦州となったアリゾナ州も見てみましょう。

 アリゾナ州はアメリカの南西部に位置し、メキシコと長く国境を接しています。人口639万人。内陸最大の規模です。先端産業の展開でカリフォルニアからの人口移動が多くなっています。観光資源としてはコロラド川のグランドキャニオンやフーバーダムが有名です。

 今回選挙速報で知った郡の名前を拾ってみると、ピマ(pima)、ユマ(yuma)、コチセ(cochise)、マリコパ(maricopa)、ココニコ(coconico)、ヤバパイ(yavapai)、アパッチ(apache)、モヘブ(mohave)、ナバジョ(navajyo)など、郡の大多数がインデアンの言葉です。

 しかも、ピマ郡やマリコパ郡は、アリゾナ州の中心地で、ピマ郡には州第2の都市ツーソンが、マリコパ郡には第1の都市州都フェニックスがあり、ここで勝利したことが、バイデン勝利、ひいては民主党のアリゾナ州の上院議員選勝利に大きく貢献したわけです。

 この大都市を建設したのは入植者ですから、「フェニックス」という名前が付いたのは自然です。しかし、その周りのこの土地は何と呼ぶのかという問題が生じたのでしょう。

 それをあらわす西洋語はなく、先住民が使っていた、「マリコパ」という、その地区を表す言葉を、そのまま使用したと推測されます。

 日常は都市名を使用しますから、この郡名は、都市を含む広い地区を選挙区とするアメリカの大統領選挙や上下院議員選挙の時に現れる、「先住民の文化遺産」と考えることもできます。

 これほどアメリカインディアンの文化的遺産を引き継いでいるのですから、自らのアイデンティティーに取り入れて、このインディアンの文化に対し、もっと畏敬や尊崇の念を示してもよいのではないかと思います。

 さて、写真にある黄色の機体は1932年から37年まで、「オハイオ州」ミドルタウンで作られた「エアロンカC3」の5分の1の模型です。この模型は30年ほど前に作ったものですが、機体もエンジンも日本製です。アメリカでは実機が今でも飛んでいます。

 正確にいうと、この型式はアメリカ連邦航空局によって製造が停止されました。理由は(ワイヤーでは連結されているが)胴体と主翼が構造上結合されていないからです。

 しかし、それまでに製造されたものは、検査を受けて合格すれば飛行することができるというルールがあり(グランドファーザー・ルール)、実際に今なお飛行しています。これがアメリカの自由なところです。

 残念なことに、模型界では、もうこの機体は作られていません。

 模型飛行機産業は、主たる生産拠点が、ベトナムや中国に移り、日米ともに国内産業は衰退の一途を辿っています。しかし、ライト兄弟のフライヤー号をはじめ、実機の歴史の長さ、実機の種類の多さ、機体情報の豊富さでは、やはり、アメリカがはるかに優位性を保っていますので、中小零細企業分野ですが、いつの日か米国の模型飛行機マニファクチャリングが復興することを期待しています。

以上





ページのトップに戻る